遺骨が梁に戻ってきたとき

予章王蕭綜の生涯7
530年12月、外戚の爾朱一族が孝荘帝を殺すという事件が起こりました。蕭賛はこのとき大尉・斉州刺史・驃騎大将軍として斉州(現在の河北省近辺)に赴任していましたが、趙洛周ら斉州の城民が爾朱一族に付いたため、蕭賛は髪を剃って僧侶に変装して逃亡しました。この間に蕭賛の妻寿陽長公主は爾朱世隆に殺されています。蕭賛は僧形で各地を逃げ回りましたが、陽平というところで病気になってそのまま死にました。享年30歳でした。彼の亡きがらは北魏の朝廷に引き取られ、王の礼をもって嵩山(現在の河南省にある山岳群)にて寿陽長公主とともに合葬されました。
その後、梁の人々が嵩山にある蕭賛の墓を暴き、彼の遺骨を盗んで梁に持ち帰りました。そして梁の武帝の皇子である予章王蕭綜として、蕭氏の陵墓に葬られたということです。
北魏亡命後の蕭綜は、その社会的地位に反して鬱屈した気持ちを抱いていたようです。彼は父武帝や兄昭明太子ほどではないにせよ、かなりの文才がありました。しかし北魏亡命後に作成した『悲落叶』などの作品には、彼の嘆きや苛立ちがこめられているそうです。
彼の遺骨が梁に戻ってきたとき、父武帝は古希前後に差し掛かってなお皇帝として健在でした。老いた皇帝は仲違いした息子の遺骨を見て何を思ったのでしょうか?
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